一汁三菜の味

日本の伝統的食文化の長所・魅力について書いてあります。

日本の伝統的食文化の長所、先哲に学ぶ命の重み

人種・民族間の差別・偏見の解消

私たち人間は、すべて、人間であることそれ自体において、侵すことのできない尊厳と価値を持っている。それゆえ、私たち人間の間では、いかなる差別も偏見も許されないはずのものである。なぜ、差別や偏見が許されないのか、いまここで、次のような視点からアプローチしてみることも必要であろう。

 

 私たちは、生まれるときに、男に生まれるか女に生まれるかを、あたりまえのことであるが、選ぶことはできない。私たちは、男あるいは女として生まれた後、やがていくつか年を重ねてから、自分が男であるとか女であるとかを意識するのである。つまり、私たちの性別は、私たちの選ぶことのできないものとして、したがって私たちの責任の及ばないところで、好むと好まざるとにかかわらず、運命として与えられてしまうものである。

 

 同様に、私たちは生まれるときに、どの民族、どの人種に生まれるかも、あたりまえのことではあるが、自らが選ぶことはできない。私たちは、生まれた後、やがていくつか年を重ねた後、自分がどの民族、どの人種に属するかを意識するのである。それも、また、私たちの選ぶことのできないものとして、したがって私たちの責任の及ばないところで、好むと好まざるとにかかわらず、運命として与えられてしまうものである。

 

性別・人種・民族というものが、そのように、自己が好むと好まざるとにかかわらず、自己の選ぶことのできないものとして、したがって自己の責任の及ばないところで与えられてしまうものだという事実だけからしても、そのことが、なんらかの差別や偏見の根拠になってはならないことは明白である。

 

しかるに、現代社会には、人がどの性別、どの人種、どの民族に生まれ、属しているかという、ただそれだけの理由からの差別や偏見がいまなお随所にみられる。これこそ、まさに、「いわれのない差別・偏見」と言わざるをえないだろう。

聖書に語らえている「禁断の木の実」とはなにか

聖書」は、人類の始祖アダムとイブがエデンの園で「禁断の木の実」を食べたことによって罪を犯し、その罪のゆえにエデンの園を追われ、地上に追放されたと記している。そして、私たち人間は、皆、地上に追放されたAアダムとイブの子孫であり、その罪を引き継いでいるとも記している。

 

 私たち人間がみな罪の血を引き継いでいるという、この『聖書』の記述は、私たち人間になにを語っているのだろうか。このことについて、次のように理解してみることもよいのではないだろうか。

 

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものの命を奪い、それを自らの栄養源として摂取する必要がある。

 

他の生きものの命を奪い、それを自らの栄養源として犠牲にしないと生きられないという宿命こそが、私たち人間が背負っている「原罪」だといえないだろうか。そして、私たち人間が生きるために栄養源として摂取している「他の生きものの命」こそが「禁断の木の実」だといえないだろうか。

人類の始祖アダムとイブが「禁断の木の実」を「​食べること」によって罪を犯したのと同じように、私たち人間も、また、日常何気なく行っている「食べること」において罪を犯しているのではないだろうか。

 

それゆえ、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている重い課題である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。

 

最近では、コメ・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食としても、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

ブッダの名言のもと動物愛護について考える1

ブッダの名言

 「かれらも私と同様であり、私もかれらと同様である」と思って、わが身に引きくら

べ、生きものを殺してはならぬ、また、他人をして殺させてはならぬ。

          『ダンマパダ』より

「あたかも、母が己(おの)が独り子を身命を賭して護るように、そのように、一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」           

          『スッタニパータ』より

               

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。

 

私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それゆえ、それだけに、、いかにして他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている重い課題である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

   

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

 最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防するものとして、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

 

 

 

和食の伝統と生きとし生けるもの

四季折々の食材に感謝し、箸を使いこれをつつましやかに食する和食の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが受け継がれている。

 

日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも農耕に適した地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境にあって、日本人は、その歴史のなかで、穀物や野菜、それに魚介類への依存度の高い独自の食文化を築いてきた。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜・魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物・野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えも、すなおに人びとの生活に浸透していった。

 

天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外し、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存が少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉を除いて肉食忌避の風潮が助長され、和食のもつ独自性が保ち続けられた。

 

こうして、明治に至るまでの日本人は、肉類への依存度の低い食文化を定着させ、穀物と野菜と魚介類、この三者を中心にして和食の基本形がつくられてきた。牧畜・肉類への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

四季折々の食材に感謝しつつ、これをつつましやかに食する和食の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが受け継がれている。 

 

もちろん、和食にも、現代の栄養学からみて改善するべき点がないわけではない。私たちが自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮もさることながら、自らの健康・栄養への配慮が必要になる。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、世にベジタリアンと呼ばれる人たちの大部分も、これを食することを容認している。

 

乳製品と卵に加えて魚介類をも食する人たちは、「シーフード(フイッシュ)・ベジタリアン」と呼ばれることがある。また、乳製品と卵に加えて鶏肉を食する人たちは、最近では「チキン・ベジタリアン」と呼ばれることがある。

 

こうしたベジタリアンおよびセミベジタリアンの人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚の命は、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

 最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

         ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。  

ガンジー語録』より

 

日本の伝統的食文化の再評価

 最近では、米・野菜・魚介類が中心で肉類に依存することの少ない日本の伝統的食文化が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの人気を集めている。

 

日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも農耕に適した地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境にあって、日本人は、その歴史のなかで、穀物や野菜、それに魚介類への依存度の高い独自の食文化を築いてきた。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜・魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物・野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えもすなおに人びとの生活に浸透していった。

 

天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外したり、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存が少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉を除いて肉食忌避の風潮が助長され、日本食のもつ独自性が保ち続けられた。

 

こうして、明治に至るまでの日本人は、肉類への依存度の低い食文化を定着させ、穀物と野菜と魚介類、この三者を中心にして日本食の基本形がつくられてきた。牧畜・肉類への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

四季折々の食材に感謝し、箸を使いこれをつつましやかに食する日本食の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが受け継がれている。 

 

もちろん、食材の欧米化・グローバル化が急速に進む今日の状況にあっては、日本食にも、それらの食材を取り入れて改善していくべき点がないわけではない。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(悲しみなどの感受性)の発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たないもの」であり、また、魚介類や鳥類は、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、肉食を忌避する人たちの多くも、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類は、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものである。それゆえ、肉食を忌避する人たちの多くが、乳製品と卵に加えて魚介類や鳥類を食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、

人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通23年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

 ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。  

ガンジー語録』より

 

ガンジーの言葉をもとに動物愛護について考える

 ガンジーの言葉 「私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、『生きものの食べ物は生きもの』という言葉には、深慮するべき意味がある。」                                『ガンジー語録』より

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

           

          


 
牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通23年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

食生活を考える

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、 自らの命・健康を維持するためには、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。私たち人間の生命そのものが、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要であり、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

  

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

和食の良さ・メリット

和食は、健康ブームにのって世界的にも人気が高く、世界各地の街角に日本料理店が見られるようになっている。

アメリカの場合に例をとってみると、1977年に上院の栄養問題特別委員会が発表した報告書「アメリカの食事目標」が、「果物、野菜、全粒粉の穀物の摂取を増やす一方で、動物性脂肪の多い食品を減らし、鶏肉や魚肉を選ぶこと」を提案し、このことが一つのきっかけにもなって和食が注目されるようになったといわれている。和食は、栄養バランスに優れ、後世に残すべき食文化として、今や、世界で注目を集めているのである。

          

        

 

和食の特色 

 日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも植物の豊富な地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境から、日本人の食生活は、古くから、穀物や野菜、それに魚介類への依存度が高いことを特色とした。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜・魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

 このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物・野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

 わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えもすなおに人びとの生活に浸透していった。

 

天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外したり、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存が少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉を除く肉食忌避の風潮が助長され、和食のもつ独自性が保ち続けられた。

 

 こうして、明治に至るまでの日本人は、肉類への依存度の低い食文化を定着させ、穀物と野菜と魚介類、この三者を中心にして和食の基本形がつくられてきた。牧畜・肉類への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

最近では、米・野菜・魚介類が中心で肉類に依存することの少ない日本型食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

健康・長寿食といわれる和食には、また、日本人古来の、生きとし生けるものへの優しさが脈々と受け継がれている。食材に感謝しつつ、箸を使いこれをつつましやかに食する和食の伝統には、生きとし生けるものを大切にする心が脈々と受け継がれている。 

 

もちろん、私たちが自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮もさることながら、自らの健康・栄養への配慮が必要になる。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(苦痛感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、世にベジタリアンと呼ばれる人たちの大部分も、これを食することを容認している。これらの人々は、「ラクト・オボ・ベジタリアン」と呼ばれる。

 

また、乳製品と卵に加えて魚介類をも食する人たちは、「シーフード(フイッシュ)ベジタリアン」と呼ばれることがある。また、乳製品と卵に加えて鶏肉を食する人たちは、最近では「チキン・ベジタリアン」と呼ばれることがある。

 

こうしたベジタリアンおよびセミベジタリアンの人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通23年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

         ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。  

ガンジー語録』より