一汁三菜の味

日本の伝統的食文化の長所・魅力について書いてあります。

日本の伝統的食文化の長所、先哲に学ぶ命の重み

日本料理の特色

日本料理の特色としては、そこに季節感が感じられること、食材それぞれの持ち味が生かされていること、盛りつけが見た目に美しいことなどをあげることが出来るだろう。だが、これに加えて、生きとし生けるものへの優しさということも、その特色といえるだろう。

 

 日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも植物の豊富な地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境から、日本人の食生活は、古くから、穀物や野菜、それに魚介類への依存度が高いことを特色とした。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜・魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

 このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物・野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

 わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えもすなおに人びとの生活に浸透していった。

 

天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外し、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存か少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉は例外とする肉食忌避の風潮が助長され、日本料理のもつ独自性が保ち続けられた。

 

 こうして、明治に至るまでの日本人は、肉類への依存度の低い食文化を定着させ、穀物と野菜と魚介類、この三者を中心にして日本料理の基本形がつくられてきた。牧畜・肉類への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

食材に感謝しつつ、箸を使いこれをつつましやかに食する日本料理の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが受け継がれている。 

 

もちろん、日本料理にも、現代の栄養学からみて問題がないわけではない。私たちが自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮だけでなく、自らの健康・栄養への配慮が必要になる。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほどには、感覚や感情が高度に発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)や感情を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、世にベジタリアンと呼ばれる人たちの大部分も、これを食することを容認している。これらの人々は、「ラクト・オボ・ベジタリアン」と呼ばれる。

 

また、乳製品と卵に加えて鶏肉を食する人たちは、最近では「チキン・ベジタリアン」と呼ばれることがある、乳製品と卵に加えて魚介類をも食する人たちは、「シーフード(フイッシュ)・ベジタリアン」と呼ばれることがある。

 

こうしたベジタリアンおよびセミベジタリアンの人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、餌として与えられる数キロの穀物を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。                  『ガンジー語録』より

 

ポール・マッカートニーの言葉から動物愛護について考える

ポール・マッカートニーの言葉

「屠殺場の壁がガラス張りだったら、人々はみな、ベジタリアンになるでしょう。」

 

ポール・マッカートニーの心の内奥を垣間見ることのできる言葉である。こうした、彼の心の優しさは、彼の音楽表現の上にも滲み出ている。

            

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

   

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それゆえ、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている重い課題である。

 

この問題の根本的解決は、いつの日か科学技術が高度に発達し、動物性栄養素(タンパク質など)の人工的合成や培養、およびその普及が実現する時まで待たなければならないのかも知れない。

 

ともあれ、現在を生きる私たちが、遠い将来の夢ではなく、現実の問題として自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮もさることながら、自らの健康・栄養への配慮も必要である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、世にベジタリアンと呼ばれる人たちの大部分も、これを食することを容認している。これらの人々は、「ラクト・オボ・ベジタリアン」と呼ばれる。

 

また、乳製品と卵に加えて魚介類をも食する人たちは、「シーフード(フイッシュ)・ベジタリアン」と呼ばれることがある。また、乳製品と卵に加えて鶏肉を食する人たちは、最近では「チキン・ベジタリアン」と呼ばれることがある。

 

こうしたベジタリアンおよびセミベジタリアンの人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

 最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の、わが国伝統の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

培養肉の普及による動物の命の救済

近づく培養肉(人工肉)の開発・普及

マスコミでも報じられているように、培養肉(人工肉)の開発が、欧米を中心に進み、これを生産・販売する企業もできているという。そして、10年後には、私たちが、これを当たり前のように食べる時代が来るかもしれないという。

 

培養肉(人工肉)は、動物の幹細胞を培養・増殖してつくられる肉のことである。動物から幹細胞だけを取り出して、これを培養・増殖してつくられるものであるため、動物の命を犠牲にする必要がない。

 

また、無菌の空間で厳密な管理のもとでつくることも可能であるため、衛生面で評価できるうえ、家畜を飼育するのとくらべて環境・大地・水への負荷も低い。

 

さらに、今後の技術の進展によって、消費者のニーズに応えるような、よりヘルシーでより食べやすい肉を大量生産できる可能性も秘めている。

 

動物の命を犠牲にしないという意味で、倫理的・人道的な肉である培養肉(人工肉)が、私たちの食卓にあがる日が近づいているのかもしれない。

 

私たちの食生活への影響

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それだけに、私たち人間にとっては、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、深慮しなければならない重い課題である。

 

こうしたなかで、すでに欧米を中心に進む培養肉(人工肉)の開発・普及こそが、こうした課題に応えるうえで大きな役割を担っているのではないだろうか。 

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

       

 

 

日本人の体質に合った食生活

最近、「人種差」を考慮した健康法・栄養摂取法の重要性が指摘され、それへの関心が国際的な広がりを見せている。それによると、西洋人・東洋人・日本人…といった人種の違いによって体質が異なり、体質が異なれば、健康法も食生活も変わらなければならないというのである。

 

わが国でも、奥田昌子氏がその著「欧米人とこんなに違った日本人の『体質』」(講談社ブルーバックス)のなかで、とくに欧米人と日本人の体質の違いに注目し、健康法も食生活も相互に異なるべきことを指摘し、次のように記している。

 

すなわち、「欧米人と日本人とでは、同じ人間であっても、外見や言語が違うだけでなく、筋肉の付き方や脂肪の質、体温、食物の消化吸収力、アルコール分解力、インスリンの量、腸内環境など、さまざまの面で違いが生じている。」したがって、欧米人と日本人とでは、それぞれの健康法も変わらなければならないし、摂るべき食べものも変わらなければならない、と。

 

日本人の体質に合った食生活

私たち日本人は、とくに明治以降、食生活の欧米化をすすめて今日に至っている。こうした食生活の欧米化が、真に日本人の体質に有効であるのか、日本人の健康にどのような影響を及ぼしているのか、これまであまり検討されないまま今日に至っている。明治に至るまでの日本人は、獣肉に依存することが少なく、穀物と野菜と魚介類、それに鶏肉をも加えた食生活を定着させてきた。牧畜・獣肉への依存度の低い日本人の伝統的な食生活は、今では、健康長寿食として世界的にも注目されている。

 

長寿のカギが、伝統的な和食にあることは、これまでも様々に指摘されてきているが、最近の東北大学大学院の都築毅准教授のグループの研究も、その一つである。

 

グループは、1975年の平均的な家庭の献立と現代食(2015年当時)のそれとを比較し、その上で、長寿のカギは、肉類への依存度の低かった1975年ごろの伝統的な和食に立ち返ることにあると説いている。(朝日新聞2018年10月8日朝刊より)

人間の食生活と生きもの

 ガンジーの言葉 「私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、『生きものの食べ物は生きもの』という言葉には、深慮するべき意味がある。」

                                 『ガンジー語録』より

 

ガンジーは、つねにインドの貧しい民衆の立場に身をおいて、インドの自治と独立のために生涯をささげた思想家である。その長い闘争の生涯における思想と実践のすべてを、その根本において一貫していたものは、アヒンサー(非暴力)の考え方であった。

 

アヒンサー(非暴力)とは、もともとヒンズー教(インド教)に伝わる教えであり、生きとし生けるものを同胞とみなし、一切の殺生を禁じる考え方である。上の言葉にも、かれの徹底した暴力否定の考え方や命あるものへの愛が述べられている。

 

ガンジーの言葉をもとに私たちの食生活を考える

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

  

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

私たち人間の背負う「原罪」とはなにか。

ガンジーの言葉 「私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、『生きものの食べ物は生きもの』という言葉には、深慮するべき意味がある。」                                        『ガンジー語録』より

 

 私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。

自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

他の生きものの命を奪わないでは生き続けられないという、この現実こそ、まさに人間が背負っている原罪なのではないだろうか。

 

人類の始祖アダムとイブが「禁断の木の実」を「食べること」によって罪を犯したのと同様に、私たち人間も、また、日常何気なく行っている「食べること」において知らず知らず罪を犯しているのではないだろうか。

 

こうした私たち人間にとっては、ガンジーも指摘しているように、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが深慮するべき重い課題である。

 

この問題の根本的解決は、いつの日か科学技術が高度に発達し、動物性栄養素(タンパク質など)の人工的合成や培養、およびその普及が実現する時まで待たなければならないのかも知れない。

 

ともあれ、現在を生きる私たちが、遠い将来の夢ではなく、現実の問題として自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮もさることながら、自らの健康・栄養への配慮も必要である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、世にベジタリアンと呼ばれる人たちの大部分も、これを食することを容認している。これらの人々は、「ラクト・オボ・ベジタリアン」と呼ばれる。

 

また、乳製品と卵に加えて魚介類をも食する人たちは、「シーフード(フイッシュ)・ベジタリアン」と呼ばれることがある。また、乳製品と卵に加えて鶏肉を食する人たちは、最近では「チキン・ベジタリアン」と呼ばれることがある。

 

こうしたベジタリアンおよびセミベジタリアンの人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

最近では、コメ・野菜・魚介類・鶏肉中心の、わが国伝統の食生活が、肥満や成人病を予防する健康長寿食としても、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

 

              

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シュバイツァーの名言のもと動物愛護について考える

 シュバイツァーの名言

「人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、何らか生命あるものなら害を加えることを恐れるというときにのみ、真に倫理的である。」

 

「わたくしは、生きようとする生命にとり囲まれた生きようとする生命である。」                       『文化と倫理』より 

 

シュバイツァーは、アフリカ奥地における献身的医療奉仕とともに、生きとし生けるものすべてに対する愛を説く「生命への畏敬」の思想を体系化したことでも知られている。

 

シュバイツァーも説いているように、他の生きものの命に配慮しつつ生きることは、私たち人間にとって大切な課題である。しかし、一方で、私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。

 

それゆえ、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている重い課題である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。 

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通23年で屠殺に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉が中心の日本の伝統的食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの人気を集めている。